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教育の目的

先日、九州の福岡で教育関係者の方々、教育に関心が深い大学生の方々と「教育目的」について議論する場がありました。そこでは、私がメインでプレゼンテーションして教育目的について話をしますが、参加の皆さんも事前に自ら考える教育目的についてレポートという形で提出されており、それを参加者全員が読むことができるようになっていました。皆さん、それぞれ大変立派な教育目的について書かれており、非常に勉強になりました。 
学校教育であれば私立学校には建学の精神というものがあり、それを達成するために教育が存在していると考えていますが、公立学校にはそのような見学の精神はありません。しかし教育基本法では明確に「教育の目的」が次のように定められています。「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」つまり「人格の完成」「平和民主」「国家、社会の形成者」「心身ともに健康」というキーワードが並びます。これが日本の教育の目的として明確に法律として定められている言葉です。とても荘厳かつ本質的な言葉が入っています。一方、19世紀、20世紀の西洋の哲学学者や教育学者について調べてみたところ、それぞれの時代背景によって形成された教育目的という誤差はありますが、やはり核心をつくものとして述べられていました。実は、私はこれまでの経験から、「教育とは○○のためにある」という○○の部分は真剣に考えたときから明確に定まっていましたが、過去の学者や現代の教育者の方々はどのように考えているのかということを知りたくて調べていった結果、現時点では私の教育の目的とは「自立と協調(共生に近い意味)」を両立させうる人物を作ることにある」との当初からの考えを再確認しました。「自立とは自らの意見や考えを持ち、どのような状況であっても生きていくことができる人物の状態」を指し、「協調(共生に近い)とは、自らの足りない部分を補いながら人々または自然との協調、共生の中で生きていくことができる状態」と指します。他に流されるのではなく、協調できること、そして自己を確立すること、そのためには知識が必要なこともあれば、道徳や倫理感、謙虚な心や他に学ぶ姿勢も必要になります。つまりこのような要素は「自立と協調(共生)」の下位要素として、また手段の一つとして、それぞれあるのはないかと考えています。
このような視点からみたときに、次のような疑問と脅威を抱きます。「家庭において自立と協調(共生)を育む教育となっているのであろうか。いつまでも親が子どもの世話ばかりして自立させないことや、子どもの干渉または放置ばかりしいないだろうか。学校では、生徒に自分の考えというものが主張できるように指導されているだろうか、自分だけよければ他はどうでもよいという考えが助長されるような構造になっていないだろうか。生きていくために必要は知識や考え方、技能を身に着けさせているだろうか。社会では、協力しながら進化、向上していく構造になっているであろうか。支え合うという考えのもとに社会が市民を育てているのであろうか。このようなことがされないと、人々は「依存」構造の中で生息することになる。そうなると全体主義が加速し、人々に対してメディアを使って扇動することが容易になるだろう。人々を権威に依存させ、結束することを避けるために、協調・共生関係を築かせないようにすれば支配が容易になる。だから政教分離が叫ばれているである。しかし、分離したところで、教育が自立と協調(共生)をはぐくむ構造になっていなければ、所詮、依存とエゴを養成する以外の何ものでもないという結果になるのであろう。」
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  1. 2014/08/01(金) 00:00:00|
  2. 石田勝紀からの便り
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