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国語ができない

「国語ができない」という言葉をよく耳にします。ニュースでも読解力が低下しているといったことをよく聞きますし、日本人でも「国語ができない」と思っている人は多いようです。
ここで言う「国語」とは何を指しているのでしょうか。
 学習指導要領によれば、「国語」とは大まかに、
  ① 話すこと・聞くこと
  ② 書くこと
  ③ 読むこと
これらの3つの内容に分けられることが分かります。
「国語ができない」と言うからには、この3つのうちのどれかが苦手、あるいは分からないということなのでしょうが、事はそんなに単純ではないような気がします。なぜなら、「漢字練習で培われた集中力が読解の時に役立ち、結果として読解力が上がった」という風に、それぞれの内容は他の内容に何かしらの影響を及ぼしているはずだからです。また、学習指導要領でも、3つの内容を総合して「国語」の内容としているのですから、1つの内容だけを取り上げて「国語ができない」と言ってしまうのは早計でしょう。このことから、「国語ができない」というのは上記3つのどれかができない状態ではなく、3つのうちのどれか1つの能力が欠けてしまったがために、「国語」全体ができなくなってしまったと考えるのが妥当なようです。
 生徒の様子を見ていますと、国語ができない生徒に最も顕著なのは、字が汚いということです。中学生には毎回漢字テストを課していますが、その練習をしたノートを見てみると、何かの暗号のような字が躍っていることが多々あります。このような字を書いてくる生徒は、見本があるにも関わらず正しい漢字が書けません。理由は簡単で、見本をいい加減に見て、いい加減に字を書いているからです。見本をいい加減に見る癖や、いい加減に字を書く癖がついてしまうと、文章を読むときにもいい加減に読む癖がついてしまいます。読むということはただ単に字面を追うだけでなく、文字から得た情報をどれだけ自分の中で整理したり想像したりするかが重要です。文章をいい加減に読んでいるような人に、このようなことができるわけがありません。
 また人の話を聞いたり、自分のことをうまく人に伝えられなかったりする生徒も、国語ができません。前者は人の話を集中して聞けないので、文を集中して読むこともできないということです。集中して文章が読めなければ、問題など解けるはずがありません。後者は人に何かを伝えるだけの語彙や文型を持っていないので、自分の言葉で文をまとめたり、文章を読んでも出てきた言葉の意味が分からなかったりする、といったことが起こります。
 このように、一口に「国語ができない」と言っても、それは様々な要因が重なり合った結果です。そのため国語を克服するためには、読みだけや書きだけのように1つのことを集中して練習するのではなく、上記の3つの要素をまんべんなく練習し、改善していかなければなりません。
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  1. 2013/10/01(火) 00:00:00|
  2. 講師たちから
  3. | トラックバック:0

『仕事[J]=力[N]×距離[m]』

私は我が強いというか、頑固というか、良く言えば周囲に流されにくいというか、とにかく自分の考え、意見を曲げるのが嫌いです。しかし、それを他人に押し付けようとも思いません。ですから、生徒たちに極端な話をする際に、必ず「これはあくまで俺の考えであって、必ずそうしろとは言わないし、違うよと思うのであればそれいいが」という前置きをします。今回もこのような前置きをさせていただいたうえでちょっと極端な話をさせていただきます。
 中3物理(力学)のお話です。仕事を求める公式は『仕事[J]=力[N]×距離[m]』であります。そこで問題です。10000Nの力で大きな荷物を押して運ぶとします。しかしその荷物はまったく動かなかった場合の仕事の値を求めなさい。
 そうです。答えは0です。この荷物を押している人は10000Nの力を発揮しました。相当な力です。しかしながら荷物はピクリとも動かなかったため『10000N×0m=0J』となってしまうのです。
 この仕事の求め方と同じ考え方をした場合、いくら長時間勉強をしたとしても点数がまったく上がらなければ、その価値はゼロなのです。つまり、やるからには何かしらの成果をあげなければやらないのと同じというわけです。したがって、ダラダラと適当にやらずに必ず一定の成果を上げるという目的意識を持って物事に当たれと生徒はもちろん、自分にも言い聞かせています。もちろん成果があがらなくともやったことは無駄にはならないという事例は多々あり、私にもそのような経験はあります。しかし、必ず成果を上げるという目的意識をもって事に当たったほうが、物事の多くは良い結果を生むはずです。
 よく英単語を覚えられないという生徒がいますが、絶対に覚えてやるという意識を持っていますか。まずはそういった「やるからには成果を上げる」という意識をもってください。それから事に当たってください。
  1. 2013/10/01(火) 00:00:00|
  2. 講師たちから
  3. | トラックバック:0

ゼロ・トレランス

ゼロトレランスはアメリカで広く行われている教育指導実践の在り方です。簡単に申し上げると、生徒に規律を求め、そのための詳細規定があり、その規定を違反したら、言い訳一切なしで、矯正学校(オルタナティブスクール)へ送り指導し、改善されたらば元の学校に戻ってくる仕組みのことです。「割れ窓理論(broken windows theory)-一つの窓が割られると次々と割られていくため、初期の段階で処置をすることで連鎖させない」を学校に適用し、ゼロトレランスを即行うことを始めました。(ゼロトレランスは正式には「段階的規律指導(progressive discipline)」と言われる)
日本では考えられないことです。もしこのようなことをやれば、人権問題、訴訟、マスコミによるバッシングが即行われるでしょう。しかし、人権問題、訴訟大国、多数のマスコミで支配されるあるアメリカでこれが全米で行われ、しかも成果を大いに上げているのです。事実、自己規律(self-discipline)が確立され、勉強の成績がどんどん伸びていって、アメリカの公立高校で入学志願者が約3倍になって例があります。(ただし、これらの成果という判断は、複数の書籍、アメリカ教育を知る方からのヒアリングに基づくもので、私が実際に調査したわけではないので、どこまで成果があるかは不明)
その根底には自由という言葉の解釈にアメリカと日本の違いがあるのではないかと言われています。「自由」を表現する英語にはいくつかありますが、特にfreedomとlibertyとの違いにあるようです。前者は「制限を伴う選択の自由」であり、後者は「放任、放縦な自由」であります。アメリカの自由とは前者であり、日本の自由は後者であるといいます。したがってルールという枠の中で自由があり、それを破ればペナルティがあるのは当然という考え方をするのであり、日本では制限なく自由、つまり何をやっても構わないという発想があります。アメリカでも1970年代まではヒッピーに代表されるように、後者の自由がはびこった時期があります。(今の日本人はアメリカの教育がそのようであるという印象を持つのは40年前のイメージが更新されていないためであるといわれています)しかし、1983年レーガン政権下での「危機に立つ国家」以来、アメリカの教育改革は着実に進展し、学校規律はほぼ達成されたようです。教室で生徒が守るべき基準を具体的にかつ実践的に教え、しつけていくことが行われ、現在は規律正しい学校運営が行われているといいます。遅刻撲滅という言葉は日本の学校でもよく聞かれる言葉です。校門前でのあいさつ運動、呼び出し指導を行っても一向に改善されないのは、皆様ご存じのとおりです。私はかつて全校生徒の1/3が毎日遅刻する学校の改善や遅刻者多数で深刻な問題を抱える学校の改善を行ったことがありますが、そのときは一瞬にして一桁そしてゼロへ変わりました。そのときに使った手法は今思えば、ゼロトレランスでした。これは明らかに効果があります。しかしこのようなことを聞くと「生徒の自主性が大切だ」「対話をすべき」という声が聞こえてきます。しかしそのようにやっていつまでたっても、良い状態へと変えられない現状は一体何なのか?と思ってしまいます。「それでは単なる教員たちの自己満足にすぎないではないか。それよりも一日でも早く改善して、よき生活習慣を作ることで習慣の善循環システムが動き出すことが大切ではないか。自主性はその先にあるのである。」と考えます。生活習慣が変われば学力が上がるというのは私の持論でもあり、実際多くの統計調査でも示されているとおりです。今後、機会があればアメリカの教育実態について調査をしたいと思います。
  1. 2013/10/01(火) 00:00:00|
  2. 石田勝紀からの便り
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